連載 「日本宇宙開発史から読むビジネスチャンス」 第6回 
米国宇宙を支えるハンツビルの強み(その2:スペースシャトル編)

日本の宇宙開史とともに歩んだからこそ見える、日本の宇宙ビジネスのこれから。山浦技術経営士事務所代表、元JAXA理事、山浦雄一氏によるコラム、第6回。

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  • 宇宙史の転換点:スペースシャトルが大きく拡げた宇宙開発・利用の領域
  • 日本の有人宇宙着手戦略:シャトルを使いISS計画の部分版・ミニ版を反復実施
  • ハンツビルの強み、エコシステム:50年以上持続する「宇宙」の環境・文化、その根源

2019年3月26日、米国アラバマ州ハンツビルにあるSpace & Rocket Centerで開催された米国国家宇宙評議会(National Space Council)において、議長・ペンス副大統領が「2024年迄に米国人男女を月面に立たせる」という有人月探査計画の大幅前倒しを発表し、国内外に驚きを与えた。
コラム第5回(ロケット編)で述べたとおり、ハンツビルは米国ロケットの総帥フォン・ブラウンがSaturn Vロケットでアポロ計画を支えた宇宙の街。舞台を整えての発表であった。 第6回(スペースシャトル編)では、日本の有人宇宙計画の黎明期にハンツビルが果たした役割を紹介するとともに、半世紀以上に亘りハンツビルに根付く「宇宙」の環境・文化とその根源を考察する。

日本がスペースシャトル利用から得たもの - 能力・自信・信頼

NASAでは、月面着陸(1969年)よりもっと前から、フォン・ブラウンを始めとする専門家が再使用可能な宇宙輸送往還機の研究を続けていた。幾通りもの設計案の中から、スペースシャトル(以下、「シャトル」)の最終形態が決まり計画が公表されたのは、1972年1月。有人初号機コロンビア号が、文字通りの「試験」飛行で宇宙飛行士たった2人を乗せて打ち上がったのは、1981年4月であった。 シャトルの登場は宇宙史において大きな転換点であった。有人宇宙事業での国際協力を可能にしたこと、民間人(非軍人)の宇宙飛行を可能にしたこと、宇宙利用の幅を広げ質を高めたことは、シャトルの人類社会への貢献に繋がっている。そして、2回のシャトル事故が残した教訓と対策は、奥深い。

シャトル計画において欧州とカナダは、それぞれSpacelab(シャトル貨物室に搭載する宇宙実験室)とロボットアームという重要宇宙システムの開発でNASAと協力し、1983年と1984年には自国の宇宙飛行士による運用実績を顕示して有人宇宙での存在感を高めていた。国際宇宙ステーション(ISS)計画の開始が議論され始めた1980年代半ば、ISS計画パートナの欧州やカナダに対する日本の実績不足は明白であった。

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「ふわっと92」プロジェクトでのSpacelab船内(NASA)[中央奥が毛利宇宙飛行士:1992年9月]

後塵を拝した日本は、「Spacelabに自前の実験装置を持ち込み日本人宇宙飛行士が操作する」という、Spacelabを使って有人宇宙事業を進める戦略を採った。その最初のプロジェクトが、FMPT計画(後に「ふわっと92」と命名)であった。

ハンツビルにあるマーシャル宇宙飛行センター(MSFC: Marshall Space Flight Center)が、Spacelabミッション全体のマネジメントを担っていた。1985年~1989年、30代半ばの私は、FMPT計画でのNASA調整役を担いMSFCで仕事をした。「日本初の有人宇宙プロジェクト」に従事する一人事務所の初代所長(兼雑用係(笑))という使命感を持ちながら、NASAの懐の深さに触れ、宇宙の本場のプロに出会い、技術とマネジメントを学ぶという、得難い経験に心躍る4年の日々を過ごすことが出来た。

宇宙開発事業団(NASDA:後にJAXA)は、1980年代半ばから毛利衛飛行士のSpacelab J/ふわっと92(1992年実施)、向井千秋飛行士のSpacelab IML-2/第2次国際微小重力実験室(1994年実施)、若田光一飛行士の宇宙実験衛星(日本のSFU)回収(1996年実施)、土井隆雄飛行士の船外活動(1997年実施)など、大小約10のシャトル利用プロジェクトに間断なく取り組んだ。ISS計画の部分版・ミニ版の反復経験である。参画した人と組織の全てが、挑戦から多くを学び、基礎固めをした。
1980年代~1990年代、これらプロジェクトでの成功・教訓を通じて、日本の宇宙関係者は有人対応の開発・運用・利用・訓練等の手法を理解し、国際協力・交流を学び、自信を深めた。協力相手から日本人の流儀が理解され、信頼関係を築き、友情を育んだ。
米国初の地球周回(1962年)を行った英雄ジョン・グレン飛行士が1998年77歳でシャトルに搭乗した時、医師・向井飛行士が同乗者に選ばれた。これは大変な栄誉、日本への信頼の証しであった。

「宇宙」の技術と人材を育むハンツビル」

毛利衛飛行士はNASDA入社後の1987年~1988年、アラバマ大学ハンツビル校(UAH)に客員教授として長期滞在した。MSFCにはSaturn Vロケットの全段振動試験設備(高さ100m超の歴史的構造物)があり、そこに短時間の微小重力実験を行う落下塔が設置されていた。毛利さんは、当時半ば休眠中の落下塔を動かし実験装置を修復して微小重力実験を行った。
私は、当時そこで見た毛利さんの嬉しそうな顔を今でも忘れられない。「ふわっと92」搭乗が毛利さんに決まるよりも前であった。何という実験好き。宇宙実験に相応しい人だと私は納得した。

ちょうどその頃、高校生の岡田光信君が、Space & Rocket Center(宇宙展示館・イベント施設)のスペースキャンプに参加して毛利さんに出会い、宇宙への憧れを強めていた。私も当時、ハンツビルのショッピングモールあたりで初々しい岡田少年とすれ違っていたはずである(笑)。
30年後の今、岡田さんは、世界に前例の無い宇宙デブリ除去衛星の事業化に取り組む宇宙ベンチャーAstroscale社の創業者・最高経営責任者として、世界を駆け巡っている。

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ハンツビルにあるSpace & Rocket Center (Rocket Center)[本物のSaturn Vロケットもある]

南部の小都市ハンツビルでは、「宇宙」の環境・文化(=エコシステム)が50年以上も持続し、街が「宇宙」の空気感を纏っている。何故だろうか。
重要要素は幾つもある。歴史的偉人と継承者たち(=人材)。人材を集め育てるNASA(MSFC)、陸軍施設(Redstone Arsenal)、大学(UAH)、リサーチパーク、企業群。幼少期からの学校教育、Space & Rocket Centerなど。そして、行き着くところは、地元住民からのリスペクト、地域全体の自負心、いつでも「宇宙」が当り前の環境。これが、当地を体感した私の、「何故」に対する答えである。
エコシステム構築と地方創生は相通ずる。日本の地方創生のヒントに出来ないものかと思う。

山浦雄一(やまうら・ゆういち)

山浦技術経営士事務所代表、元JAXA理事 山浦雄一(やまうら・ゆういち)

高校時代に人類初の月面着陸を見て、宇宙開発を志す。1978年4月~2017年3月の39年間、宇宙開発事業団(NASDA)及び宇宙航空研究開発機構(JAXA)に在籍。JAXA最後の4年間(2013年~2017年)は理事として、経営企画、産業振興、国際関係、情報システム、システムズエンジニアリングなどを担当。併せて、最高情報セキュリティ責任者(CISO)。JAXA理事退任後、2017年5月から三菱電機株式会社にて顧問(宇宙事業担当)。2008年より、筑波大学客員教授。2019年5月より、山浦技術経営士事務所代表。

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