連載 「日本宇宙開発史から読むビジネスチャンス」 第1回 
世界に挑む日本、今に繋がる大きな挑戦

日本の宇宙開史とともに歩んだからこそ見える、日本の宇宙ビジネスのこれから。元JAXA理事、現三菱電機株式会社宇宙システム事業部顧問、山浦雄一氏によるコラム、第1回。

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  • 元JAXA理事、現三菱電機株式会社宇宙システム事業部顧問、山浦氏によるコラム第1回
  • 自己紹介:学生時代の想定を超えた宇宙開発の変化・進化
  • 1970年代~1980年代、日本の宇宙戦略と世界挑戦

「宇宙」の展望と課題を伝えるコラム

近年世界で起きているグローバル化とデジタル化の中で、「宇宙開発と利用」(以下、カギカッコ付きで「宇宙」)の領域も、他の産業と同様ここ何年かのうちに大きく変わり、今なお変わり続けている。驚くべきスピードである。
今や「宇宙」に関わる国は100を超え、「宇宙」の多様性と進化する地上技術が、分野を超えてステークホルダーや「宇宙」サービスの受益者を拡大している。海外の「宇宙」の会議に出ると、今までの価値観、手法、スピードに留まっていては立ち行かない状況が一目瞭然。この変化をビジネスチャンスに変えるかどうかが、勝負の分かれ目。
今後このコラムでは、参入者が増え形を変えて進化する「宇宙」の展望と課題を、最新状況に過去のエピソード・教訓を織り交ぜ、お伝えしたい。

日本の宇宙開発史とともに

今回はコラム第1回ということで、自己紹介を中心にしてエピソードを加えることにした。
私の小学校~高校時代の1960年代(昭和ど真ん中)は、初の有人飛行(ガガーリン)、初の探査機成功(月、金星、火星)、初の日米衛星中継(初映像はケネディ大統領暗殺の悲報)、アポロ計画実現(特に8号、11号)など、「宇宙」を巡り驚きと感動の連続であった。そして、「宇宙」での日本の出遅れ感と日本流の頑張りを痛感しながら、大学・大学院では宇宙工学を専攻した。
1978(昭和53)年、創立9年目の宇宙開発事業団(NASDA)に入社し、2017(平成29)年にJAXA理事を退任した。現在は、三菱電機株式会社に宇宙事業を担当する常勤顧問として勤務している。
NASDA/JAXA勤務の39年間に仕事と勤務地は数年毎に変わったが、従事年数を足し算すると、有人宇宙(スペースシャトル実験、国際宇宙ステーション(ISS)計画)/約19年、本社・企画等/約14年(理事4年含む)、地球観測/約4年、宇宙探査/約2年(理事補佐)である。JAXA理事としては、経営企画、産業振興、国際関係、情報システム/セキュリティ、システムズ・エンジニアリングなどを担当した。

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東京、米国大使公邸にて。若田飛行士がISS船長を務めた2014年に、大使主催の祝賀パーティーにて。

左から、ケネディ大使、山浦氏、若田宇宙飛行士。

「正確な位置情報・時刻情報がいつでもどこでも分かることになったら、世の中は大きく変わるよ」

学生時代の論文テーマは、当時知る人など殆ど居ない航行衛星(今で言う測位衛星)システム。沢山の衛星で構成し世界で常時・即時に使えるシステムなので、今話題の衛星コンステレーションでもある。
学部時代の恩師は、故・田辺徹先生。「将来GPSという画期的なシステムが出来る。研究テーマは航行衛星システムでどうか」と問われ、飛びついた。私は、田辺研究室の1期生。衛星が何十機というスケールの大きさと、テーマの研究一番手というのに引かれた。一番手・第一走者の強みは、前走者と比べられない上に、自由にやれることである(笑)。
田辺先生は、「正確な位置情報・時刻情報がいつでもどこでも分かることになったら、世の中は大きく変わるよ」が口癖だった。40年以上も前、ウィスキーを飲みながらの語りでもあり、半信半疑の学生は私だけではなかった。今や測位衛星システムは、米・欧・露・中・印も日本(QZSS)も運用する。GPSがあるから無人採鉱車両もUBER(スマホ利用のタクシー配車)もビジネスになった。UBERは便利だ。己の不明を恥じるばかりである。

大学院(修士課程)の2年間は航行衛星システムのテーマを継続し、当時駒場にあった宇宙航空研究所(ISAS)(後に宇宙科学研究所、JAXA)の秋葉鐐二郎先生・松尾弘毅先生の研究室に在籍した。行って初めて知ったのだが、ペンシルロケットの糸川英夫先生の自力開拓の薫陶・遺伝子を受け継ぐISASの中枢。強烈な個性と能力と型破りが共存する、私にとっては「普通じゃない」「研究以外で多くを学ぶ」環境であった(笑)。そんな所でこれまた自由に過ごし、いつのまにか鍛えられていた。
NASDA入社の25年後の2003年、まさかの宇宙3機関統合がありJAXAが誕生した。私は、2011年~2013年にISASのある相模原キャンパスに勤務(里帰り)し、理事補佐(執行役)として宇宙探査プログラムを担った。一番苦闘した案件が、不要論が出ていた「はやぶさ2」であった[詳細は、松浦晋也著「はやぶさ2の挑戦」(2014年、日経BP社)]。当時私は、國中均教授(現ISAS所長、JAXA理事)に随分多くの頼み事をし、「はやぶさ2」プロマネも受けて貰った。お互い、「はやぶさ2」の実現は何とかマネージできたが、今日ある小惑星資源採掘のビジネス誕生など全くの想定外。誰かがやれば地球の裏側で何かが起こる。風(はやぶさ)が吹いて(噴いて)、桶屋になるのは誰であろうか。

世界最先端に挑む日本の闘志

私の入社当時(1978年)のNASDAは、米国技術供与のN-Iロケットで100kg級、200kg級の実験用国産衛星を打ち上げつつ、米国企業の支援を得て気象衛星(GMS)・通信衛星(CS)・放送衛星(BS)を開発し、実験初号機(300kg級)は米国ロケットで打ち上げる(N-Iの能力不足)状況にあった。随分卑屈なようだが、将来は自前の液体ロケットと静止衛星と観測衛星を持ち実利用時代を目指すという、日本の「宇宙」戦略の第一歩であった。

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H-Ⅱロケット1号機の打ち上げ。世界最先端を目指して闘志を燃やした。(C)JAXA

そして6年後の1984年、日本の「宇宙」はとてつもなく高い目標を掲げ突き進む。1984年当時、全国産ロケットH-Ⅱ(H-ⅡAの前身)の予備設計開始、国際市場を視野の静止2トン級衛星(ETS-Ⅵ)の概念設計本格化、初のスペースシャトル搭乗宇宙飛行士の募集と同実験34テーマ選定、国際宇宙基地計画(後のISS計画)への参加検討開始と、一気に世界最先端を目指した仕事が同時並行で推進された。
何とも大変な時代に突入したが、担当者は皆「やればできる」と闘志を燃やし、頑張った。
だが、1990年のスーパー301条・日米合意は、世界市場参入に挑む日本の「宇宙」にとって晴天の霹靂、インパクトであった。

コラム第1回は設定字数を超えてしまったのでここまで。続きの、昔と今を繋ぐエピソード・教訓は第3回以降で紹介したい。第2回では話題を変え、最近のビジネス方面の世界宇宙事情をお伝えする。

山浦雄一(やまうら・ゆういち)

元JAXA理事、現三菱電機株式会社宇宙システム事業部顧問 山浦雄一(やまうら・ゆういち)

高校時代に人類初の月面着陸を見て、宇宙開発を志す。1978年4月~2017年3月の39年間、宇宙開発事業団(NASDA)及び宇宙航空研究開発機構(JAXA)に在籍。JAXA最後の4年間(2013年~2017年)は理事として、経営企画、産業振興、国際関係、情報システム、システムズエンジニアリングなどを担当。併せて、最高情報セキュリティ責任者(CISO)。JAXA理事退任後、2017年5月から三菱電機株式会社にて顧問(宇宙事業担当/常勤)。2008年より、筑波大学客員教授。2017年より、技術経営士。

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